インタビュー(医療法人 三條医院:三條加奈子先生)

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医療法人 三條医院 (新庄市)

三條  加奈子先生

 

Q医師を目指されたきっかけは。

 私は、大石田町で育ちましたが、私の父が外科と産婦人科の診療所を開業していました。地域に多くの医師がいたわけではないので、父は、往診からお産、手術まで、忙しく働いていて、そんな父の背中を見ながら、医師になることを意識していきました。

Q小児科を目指そうと思ったのは、いつ頃の時期ですか。

 大学を卒業して、専攻科を決めかねているときに、父が紹介してくれた山形大学の小児科の林正教授にお会いして、その場ですぐ「明日からおいで」って言われて、「はい。お願いします。」と、即決で、小児科でお世話になることになりました。

Q山大の小児科に入局されてからのことを教えてください。

 入局してからは、大学病院や県立新庄病院で勤務しながら、研究に取り組んでいました。大学病院では、早朝に出勤して、病棟の回診や外来の補助をして、外来が終わってからは患者に関する文献を読んだりしていたので、夜は9時や10時に帰っていました。毎日、遅くまで医局にいて、臨床の技術を磨き、先生方の研究について知識を磨くなど、入局して6年くらい女性を意識することなく仕事をしていました。

Qご結婚されて、天童市立天童病院(現在の天童市民病院)に、その後、新庄病院に行かれた頃のことを教えてください。

 結婚してからは、天童に住居を構えて、はじめは大学まで通っていましたが、教授に配慮していただき、天童病院で働くことになりました。天童病院では、小児科常勤医が私1人で、週2回大学から指導医の先生に応援に来ていただいていましたが、独身の時と同じローテーションで、当直にも入っていました。主人も河北病院でお産があって、家に帰れない日が多かったので、結婚して仕事が制約されるということはなかったです。

 天童に居て妊娠が分かった段階で、新庄に戻ってきました。主人の父が、この医院で産婦人科を開業していて、私が結婚したとき、義父は既に亡くなっており、この医院も閉院していたのですが、後々は主人とここで開業するということを、結婚したときから決めていましたので、妊娠が分かった段階で、開業準備も兼ねて県立新庄病院に移りました。娘が1歳になった時点で開業しました。

Q病院に勤務されていた時と、医院を開業して働かれている今を比べて、どちらの仕事の方が大変ですか。

 勤務医は、9時から17時までの勤務がベースで、当直が入っても次の日までというように時間の制約があったので、自分の時間を持つことができました。主人と二人でこの診療所を開業してからは、お産があれば呼ばれますし、常に忙しいわけではないのですが、24時間待機しているような状況でした。

Q開業して、子育てしながらの仕事は大変ではなかったですか。

三條先生(横)

 上の子が1才の時に開業しましたが、1才6ヶ月から縁のあった託児所に娘を預けることができましたし、何よりも主人の母に、本当によく助けていただきました。子供が2人、3人と生まれてからは、母の負担が増えないよう、家政婦さんに来てもらったりするなど、本当に母をはじめ周りの方のサポートのおかげで、医師の仕事に専念させていただいて、今まで来ています。

 

 

Q今後は、どう医療に関わっていきたいですか。

 地域医療に少しずつ携わりながら、自分のペースでゆっくりとやっていければいいかなと思います。

Q女性医師が活躍するために大事な事はなんでしょうか。

 女性医師を人的にサポートしてくれる体制ですね。県内でも病児保育が行われていますが、病児に限らず、当直の間に子どもを安心して預けられる体制などがあれば、心おきなく仕事ができると思います。

 育児休暇を取って子育てにがんばる方もいらっしゃるので、現場復帰した時、特に外科系の先生は、技術的についていけずに大変ではないかと思うので、育児休暇中でも週1~2回、現場に触れて技術を繋いでいけるようなサポート体制があるといいと思います。

 私の場合、母が子どもの世話をしてくれましたし、母の伝手で家政婦さんに来ていただくなど、家のことをお願いできる方に巡り合うことができましたが、やはり、サポートしてくれるマンパワーが大事だと思います。

県内で活躍されている女性医師の方にメッセージをお願いします。

 それぞれ色々な生き方があって良いと思います。どうしても周りの人のサポートは必要だと思いますので、その人たちに感謝し、医師を続けていく道を探りながら生活していって頂きたいと思います。